蛙
カエルの子はオタマジャクシである。
日本文化は恥の文化と言われる。
『恥』が行動規準にあるらしい。ようは「恥ずかしいか。恥ずかしくないか」が規準だと。そして、そこには常に他人の目がある。
納得だ。確かにそうだ。
家では平然と屁をコケるが、他人の前ではコケない。たって恥ずかしいもの。
他人の目が届かない家庭内の事を公にすることに大きな抵抗があるし、するものでもないとも考えてる気もする。
だからこそ家庭には家族しか知らない闇がある。
家族であることを証明する闇。
『機能不全家族』だった。
結果を言ってしまうと私の生まれ育った家庭はこれだったと思う。
こうなると親ガチャで言うところの“ハズレ”
だったと考えてしまう。
と、ガチャとはよく出来た言葉だとも思う。
2割しか当たらないのだから。
かく言うところ私もアダルトチルドレンの傾向があると自覚していて、今カウンセリングを受けている最中。
カエルの子はオタマジャクシである。
軽口でこう書き始めたが調べてみると、
蛙の子はおたまじゃくしであるが成長すれば蛙になるように
子どもは、小さいころは親に似ていなくても、あるいは親の仕事とは違う世界に興味をもっていても、結局は、親に似たり、親の進んだ道を歩んだりするというたとえ。*1
当然だが、時間の経過を経ての蛙の子は蛙。であった。
年々親父に似てきている、嫌いだった親父の嫌いな部分が自分の中にもあるのを
感じることが多くなってきた。
親父は40代に知人3人と脱サラを試みるもあえなく失敗、散財に終わった。
そして、私も今や40代。
奇しくも職場3人で脱サラの話が沸き上がっていた。が、断腸の思いで断った。
所詮、蛙の子は蛙であろう。が少しでも違う蛙として生きたいとも願う蛙でもある。