キン肉マンの日に吉野家は無くても
今日はキン肉マンの日です。
金曜日で29(にく)でキン肉マンの日らしいです。
私、キン肉マンはジャストな世代なんですよね。ちょうど小学生でした。
類にもれずハマりましたね。キン肉マン。
牛丼一筋300年〜♪って歌いました。
全然意味不明ですけど憶えているものです。
ヤフー知恵袋で何で300年なんですか?って質問を見掛けました。
回答では元ネタは吉野家のCMで牛丼一筋80年てフレーズがあったららしいんですね。
そして牛丼が300円だったのでそこから来たのでは?的なまさにベストなアンサーでした。初めて知りました。
当時、私の住むド田舎に吉野家なんて無かったですし、少し前に出来たと思ったらすぐ撤退しました。ド田舎です、深夜は人よりキツネに出くわす事の方が多いですもの。
結局、300年の真意も吉野家の味も分からず終いです。
消しゴムを名乗るも、文字など消える訳なくただただノートを汚したキン消しです。
これも流行りました。
狂ったようにやりました。
小銭を入れてレバーをぐりんぐりん。ゴロッとカプセルが出てきて悲喜こもごも。
それでも懲りずにぐりんぐりんと。
2個出しなる荒技を小耳に挟めば、レバーもがんとばかりに、ぐりんぐりんぐりんぐりん回したものです。さぞお店の人も迷惑だったでしょう。ごめん。名も知らない店員さん。
が、今にして思えば本当にキン消しが欲しかったのか少し疑問にも感じます。
欲しかったのは事実でしょう、が、
当時の技術にしても、拙い造形。決してカッコいいとはならないフィギュアです。
そして生来、コレクター気質でもありませんので
やはり既に持っていたキン消しは全て処分してしまっています。
察するに、当時の私もさほどカッコいいから欲しいとは思っていなかった、と思うのです。
だが、惹きつけ夢中にさせる何かがあった。
それはギャンブル性です。
カプセルの中の不確実性にドキドキしていた。
丁か半か。
カプセルの中のまだ見ぬ未来に期待していた。
満足か不満か。
そんな小学生にも許されたギャンブルに魅了されていたと思います。
今日はキン肉マンの日であると同時に第一回 宝くじ発売の日だそうです。
1等賞金は10万円だったらしいです。
1945年当時の10万円です。今だったらどのくらいの価値なんでしょうか。
きっと恐ろしい額なんでしょう。想像はつきます。
それは、キン消しも然り。
マニアの間では高額で取引されてるのかな。とググってみます。
…。
やばっ。ちょっ…マンモスマンやばっ。全て捨ててしまった想像力のない自分に
不満な今日。10月29日 金曜日です。
出る杭は打たれる
出る杭は打たれる。
受けているカウンセリングで信念の書き換えなる事に挑戦してる最中です。
表現は人によってまちまちかも知れませんが「信念」だったり、「価値観」だったり、或いは「思い込み」とか「固定観念」とかでしょうか。
自分が堅く正しいと信じている気持ちです。
それを書き換えるトレーニングです。
修正上書き保存するといった感じでしょうか。
そんな事できるの?なんてちょっと勘ぐってしまう気持ちがないわけではない
ですが、百聞はなんとやらですので。
「信念」はどこからやってきたのでしょうか?
と、問うまでもなくそれは、自分が今まで生きてきた中で、形成されてきたものです。
親、恋人や友人、家庭や職場…。
とりわけ幼少期に植え付けられたものがほとんどな様に思えます。
もちろん、その信念があったからこそ、ここまでやってこれたのは事実でしょう。が、その信念に縛られて行き詰っている。生きづらくなっている。
ならば、修正しましょうよ。と。
例えば、
“人前で決して怒ってはいけない。”と信じているとすると、
(どうでも)いい子ちゃんになるのが精一杯です。搾取されるだけです。
そこで修正をし、
“人前で怒っても良い” 何故なら〇〇だから。と
しっくり来るよう論理立て繰り返し自分に言い聞かせる。
さすれば、自然と上書き保存される。
こういう具合です。
(実際にはもう少し手順等あるのですが…専門家ではないので控えます)
その例示の中に “出る杭は打たれる” がありました。
確かにそう思っている自分もいるし、上書きを試みるも
“出すぎた杭は打ちにくい” 何故なら....何故なら…打ちにくいから?
全然しっくり来ません。
打ちにくい杭はひっこ抜かれます。そうします私なら。
“出る杭は鋼の杭である” 何故なら....何故なら…....何故なら…。
無理です。豆腐メンタルであるが故の悩みなのですから。
“出る杭は打たれる時もある” 何故なら打つ人あれば、目印にする人もいるから。
どうでしょ~…。どうなんでしょ~。ギリギリアウトのようなセーフのような。
なんだか大喜利みたいになってきました。
これで上書きしたらどうなるんでしょ?
ねぇカウンセラーさん。
蛙
カエルの子はオタマジャクシである。
日本文化は恥の文化と言われる。
『恥』が行動規準にあるらしい。ようは「恥ずかしいか。恥ずかしくないか」が規準だと。そして、そこには常に他人の目がある。
納得だ。確かにそうだ。
家では平然と屁をコケるが、他人の前ではコケない。たって恥ずかしいもの。
他人の目が届かない家庭内の事を公にすることに大きな抵抗があるし、するものでもないとも考えてる気もする。
だからこそ家庭には家族しか知らない闇がある。
家族であることを証明する闇。
『機能不全家族』だった。
結果を言ってしまうと私の生まれ育った家庭はこれだったと思う。
こうなると親ガチャで言うところの“ハズレ”
だったと考えてしまう。
と、ガチャとはよく出来た言葉だとも思う。
2割しか当たらないのだから。
かく言うところ私もアダルトチルドレンの傾向があると自覚していて、今カウンセリングを受けている最中。
カエルの子はオタマジャクシである。
軽口でこう書き始めたが調べてみると、
蛙の子はおたまじゃくしであるが成長すれば蛙になるように
子どもは、小さいころは親に似ていなくても、あるいは親の仕事とは違う世界に興味をもっていても、結局は、親に似たり、親の進んだ道を歩んだりするというたとえ。*1
当然だが、時間の経過を経ての蛙の子は蛙。であった。
年々親父に似てきている、嫌いだった親父の嫌いな部分が自分の中にもあるのを
感じることが多くなってきた。
親父は40代に知人3人と脱サラを試みるもあえなく失敗、散財に終わった。
そして、私も今や40代。
奇しくも職場3人で脱サラの話が沸き上がっていた。が、断腸の思いで断った。
所詮、蛙の子は蛙であろう。が少しでも違う蛙として生きたいとも願う蛙でもある。
モヤさま IN 行田市
寝すぎた。やってしもた。
寝すぎで頭痛が痛い。体は眠りを求めているのに
従ってみたら、頭が痛いとはどういうことだ?
どういう了見なの?我が体。
などとどうでもいいことをぼーっと思ったり思わなかったりするしかない。
なにせ頭痛が痛いのだ。しょうがないのだ。
ごろごろ過ごすしかないのだ。
そんな時は何はともあれ「モヤモヤさまぁ~ず2」である。モヤさま日和だ。
言わずもがなテレビ東京の人気街ブラ番組である。
これが良い。なんとも緩い、のんきだ。
遅く起きた休日の昼間にぴったりだ。
だるい体をだらしなく横たえて観る、最高であり至福だ。
ここしばらく時間もなく録りたまってしまっていた。
HDを呼び起こせば9月頃から見れていない。
再生すれば「埼玉県 行田市をブラブラします。」の回だった。
縁もゆかりもなく、遠く全く知らない街。行田市。
『ふーん…。』だ、それ以外の感情が湧きようがない、行田市。
あるとすれば『ギョウダって読むんだ。へぇー…。』しかない行田市。
だが、そんなことはどうでも良いのだ。緩く呑気な時間を早よ。
さまぁ~ずさんも田中アナも半袖姿だ。まだ夏だった。
今や木枯らし吹き荒れん晩秋。
随分と時間が経ってしまった、とひとりしんみり…とは、ならないのがモヤさまの良いところ。
変にキラキラしてないのが心地よい。
原色キラキラ映える光景は毒だ。チカチカ目が痛い。頭痛に悪い。
何より財布に悪い。甘い誘惑に出費がかさむ。
が、この番組は違う、日常が故に淡くボヤッとしてる公園、路地、会社、お店…だ。
何かをゴリ押しして来ない、
緩く呑気で脱力できる。頭痛にも優しい。
などとボーッと眺めていると、ここにもいました。脱力系ナイスキャラ。
おにぎりの方が好きなパン屋さん。むむむ…であるものの好きなんだからしょうがない。
社訓は『眠い ダルい 帰りたい』だ。またも、むむむ…であるものの店主が決めたのだろうからしょがない。し、素敵である。
『努力 根性 忍耐』そんなの見るだけで萎えてしまう。
だって、みんな忍耐と根性で努力し続けているからこそ、眠いし、ダルいし、帰りたいのですもの。
何とも真実をついた素敵な社訓である。
『センスある。』
さまぁ~ずさんも田中アナの発する言葉にぴったりのパン屋さん。
鑑賞を終えると行ったこともない行田市を何故だか少し好きになっています。
そんなセンスある番組「モヤモヤさまぁ~ず2」。
うちの町にも来てくれないかぁ~…あ、何もなさ過ぎて撮れ高オッケーでないか…
水曜日のダウンタウン あのちゃん最強説
ギャップが大事。
ギャップ萌え、そんな言葉があるように。
水曜日のダウンタウン見ました?
面白い説がありました。
不思議少女あのちゃんを遠隔操作で操り大喜利回答をさせていたやつ。です。
情報番組「ラヴィット!」に出演していたあのちゃんに
クイズの回答をそうそうたる顔ぶれの芸人さんが秘かに裏で考え、イヤモニ越しに伝えてボケさせる。
そんな趣旨でした。
あのちゃんと言えば不思議ちゃんである。
不思議ちゃんといえばあのちゃんである。
掴みどころがなく故に思考も志向も所在不明な感じがある、あのちゃん。
その、あのちゃんが他の芸人さんのお株を奪う珍回答連発である。色んな意味でキレキレの回答である。
当然である。それは名うての芸人さん達が生み出しているのですから。
そして、そんな答えが不思議ちゃんから発せられている。
この現実(その実フィクションですが)が割増の面白さと恐ろしさを醸し出している気がしました。
ギャップのなのである。
七味唐辛子の中身、あと一つは何?
『ほぐした赤LARK』おもむろに、あのちゃん。あのトーンで。
恐怖であると同時に天才かこの子は? 末恐ろしさを感じたであろう司会者、他共演者。気の毒に。
理想と現実のギャップにもがきつつも、ギャップに惹かれるのもまた人。
見ているようで見えてないこと。
分かったつもりで解っていないこと。
少しあのちゃんが気になりだしました。まさかこんな歳?で。こんな歳だからか?と
分かったつもりで解ってないのだ。自分のことは。
ただただ今はギャップの力恐るべし…。
楓
ボロい食堂に入った。
遅い昼。
ここに来るのも久方振りだった。
職場を離れる事に決めてから財布に優しい生活を心掛けている。
優しくしているつもりも一向に応えてくれないが。
親の心子知らずである。
少しのテーブル席に窓際の長椅子席。
少しベタつく床。
すすけた天井の白。
無造作に置かれたスポーツ紙とくたびれた下世話な雑誌。
ラジカセのいつものスピッツ。
変わらないな。と思う反面
きっと今更、変わることなど出来ないのだ、ここも。とも感じる。
場末の昭和感の漂うこの店は、壮年男性とその奥さんであろう女性で切り盛りしている。
時折顔を出すその男性は、何かのっぴきならない理由でキャリアを断念し、仕様がなく食堂でも始めたような、そんな事を想像させる様相である。
そして、それは女性にも感じる。仕様がないを受け入れた旦那を仕様がなく支えているそんな感じだ。
どこか似合っているのだ、そんな雰囲気のふたりに店の佇まいも。
いつものようにスポーツ紙とあの頃より使い古された雑誌を手に指定席に向かう。が、そこには吸い殻の入った灰皿と、引かれたままの椅子。
先客か。と踵を返し他につこうとするところ、
何気に尋ねてみる。『あそこ、お客さんいる?』
−いないよ。
あっさりだ。どうやら『今、片付けるわー』的に言葉を続ける予定も無さそうだ。
気に留めてすらいなそうな、あっさりと、しっかりとした素振りだ。
相変わらずの商売っ気のなさと悪びれなさに困惑するも
不思議と嫌な気はしない。
このアバウトさが心地いい。
細かいことなどどうでもいい。
格好つけなくていい。
自分のままでいい。
生きていければそれでいい。
そう感じる数少ない場所だ。
指定席で誰かが使った灰皿を共有する。
スポーツ紙には松坂投手 引退登板の文字。
ー平成の怪物もついに引き際か。
ふと、聞こえてくる憶えのあるイントロ ‐楓‐ だ。
か細くもキラキラといつまでも冷めない熱を帯びた声が胸のあたりを掴む。
この時期にぴったりだからか。
いやに染み入るのは。
繰り返されるフレーズを味噌汁とともに流し込む。
・・・僕のままで どこまで届くだろう・・・。
除去ではなくて加工です。
見えないものは見たいのだ。
見えないからこそ見たいのだ。
氣志團は、ピリオドの向こう側。
特攻の拓だと、スピードの向こう側。
そして男ならば、モザイクの向こう側。
こやつをぬんぐっと消し去る術をあれやこれやと飽きもせず探してきたのです。
その長く険しくもウホホな道中、幸運にもリアルに出会い大抵は『あー…。こんなもんだよな』と少年は大人になって行くものです。
が、正体を知ってしまった今でもモザイクを見るとあら、不思議。俄然少年の気持ちがムクムクと湧いてくるではありませんか?
AIを駆使してAVのモザイク破壊で荒稼ぎしていた男性が逮捕されたと小耳にはさんだ。
ある者は薄い目で睨んでは敗れ、ある者は、逆もまた真なりと虫めがねで拡大も普通に敗れ、またある者は角度だと乱心、首をいわし、はたまたある者はセロファンしかないと奇々怪々な自作メガネでトリップし…。
挑んでは敗れ、挑んでは敗れ、様々な試行錯誤と怪我の末に辿り着いたのがAIだった。と。
やっぱり機械には敵わない。何せAIですもの。人工知能ですもの。
と思うが記事を読んでみると実際は完全勝利ではないようだ。
「モザイク除去」の仕組みは、大量のデータをAIに学習させて、モザイクの部分を推測して再現させるもので、もともとは低い解像度のものから色や形を推定して高い解像度の画像に加工するための技術です。
要はAIに勉強させて予測させて加工させた。とのことだった。
あの日夢見たようにモザイクが画面から忽然と消えた訳ではないようだ。
『良かった良かった。』のようでもあり、『AIお前も…。無念。』のようでもある。
そして、大量のそのデータを来る日も来る日も来る日も来る日も突っ込まれ続けた
AIがちょっと気の毒にも思えてしまうのは、
敗者同士の見えない絆だろうか。
見えないものは見たいのだ。
見えないからこそ見たいのだ。