楓
ボロい食堂に入った。
遅い昼。
ここに来るのも久方振りだった。
職場を離れる事に決めてから財布に優しい生活を心掛けている。
優しくしているつもりも一向に応えてくれないが。
親の心子知らずである。
少しのテーブル席に窓際の長椅子席。
少しベタつく床。
すすけた天井の白。
無造作に置かれたスポーツ紙とくたびれた下世話な雑誌。
ラジカセのいつものスピッツ。
変わらないな。と思う反面
きっと今更、変わることなど出来ないのだ、ここも。とも感じる。
場末の昭和感の漂うこの店は、壮年男性とその奥さんであろう女性で切り盛りしている。
時折顔を出すその男性は、何かのっぴきならない理由でキャリアを断念し、仕様がなく食堂でも始めたような、そんな事を想像させる様相である。
そして、それは女性にも感じる。仕様がないを受け入れた旦那を仕様がなく支えているそんな感じだ。
どこか似合っているのだ、そんな雰囲気のふたりに店の佇まいも。
いつものようにスポーツ紙とあの頃より使い古された雑誌を手に指定席に向かう。が、そこには吸い殻の入った灰皿と、引かれたままの椅子。
先客か。と踵を返し他につこうとするところ、
何気に尋ねてみる。『あそこ、お客さんいる?』
−いないよ。
あっさりだ。どうやら『今、片付けるわー』的に言葉を続ける予定も無さそうだ。
気に留めてすらいなそうな、あっさりと、しっかりとした素振りだ。
相変わらずの商売っ気のなさと悪びれなさに困惑するも
不思議と嫌な気はしない。
このアバウトさが心地いい。
細かいことなどどうでもいい。
格好つけなくていい。
自分のままでいい。
生きていければそれでいい。
そう感じる数少ない場所だ。
指定席で誰かが使った灰皿を共有する。
スポーツ紙には松坂投手 引退登板の文字。
ー平成の怪物もついに引き際か。
ふと、聞こえてくる憶えのあるイントロ ‐楓‐ だ。
か細くもキラキラといつまでも冷めない熱を帯びた声が胸のあたりを掴む。
この時期にぴったりだからか。
いやに染み入るのは。
繰り返されるフレーズを味噌汁とともに流し込む。
・・・僕のままで どこまで届くだろう・・・。